黒石村歴史と祭事


永野家所蔵古文書より

当主 良太郎氏 記

 

 

 ※手書きをされていた書物を、

パソコンで製本しております。


 八王子神社

 八王子神社の前身は「石の本」神社である。黒石の名称もこの「石の本」神社より始まるもので、古代萱野姫多摩(崇神天皇の命により三輪山を祭った。)がここに「黒い石の神」を祭り、玉をゆり動かして人間の魂振り(精神力を活発にする信仰的呪術)を行ったり、心境をうかがう占いにしたり、悪霊を払う呪術にしたりする信仰が「石の本」神社の古い信仰内容のひとつであった。「石の本」神社は、振るの御魂の社とよばれていた。「石の本」(地名、石の本七七二、七七三、七八一、七八二、七八三番地)というのが、今日では地名であり、その社がないが、もとは「黒い石の神」であった。この神社の一種の原始神道の神奈備(かんなび)(神の宿る山)は神社の東側にある円錐形の山であった。そこは盤坐(いわくら)(神の宿る標識)がある。ここを伊勢山(馬塚古墳のあった処、馬具出土、山ソヘ七五三)と呼ばれた。この「石の神」の本体が、振るの御魂とも、玉振主剣神ともよばれた。この剣は日本の神話の草薙剣に匹敵する位のものであった。この草薙剣の神話について述べてみると、神代の昔、天照大神の命を受けて(たけ)御雷神(みかずちのかみ)が出雲の大国主命に国ゆずりの談判に行くとき持って行った霊剣である。また神武天皇が東征のとき熊野で邪神を、たいらげた名剣であるとも言われている。この剣は神武天皇にしたがって国土をたいらげた饒速(にぎはや)(ひの)(みこと)に与えられ、饒速(にぎはや)(ひの)(みこと)はこれを同族の信仰の中心として布留御魂とともに祭り歴代天皇に奉仕したという。この部族を物部といい、古代日本の武門の一代表であった。又、宗教とも関係が深く、物部の物は、物の具の物で武器だともいわれ、物の化の物、つまり精霊とか霊魂を意味する言葉である。即ち宗教的霊力を司るのが本来の物部氏の職掌であった。六世紀頃には朝廷内部の分業が進んで宗教的職分は中臣氏や忌部氏にまかされ、もっぱら軍事警察の事を担当したのである。こうした宗教的神話も地方族長神話を当時の朝廷に於て神代からの伝話を古事記としたものであろう。野姫多摩の玉振りの信仰も地方伝話の一つであるが、この信仰に使用した十種の神宝は(鏡二種、剣一種、玉四種、比礼三種)昭和四年三月光明池溝手工事の土の取場(小次郎谷八○一番地)の土中深く埋まっていた祭祀壺の中より玉四種が出土した。比礼は布製であったので腐敗して取り出すこと得ずとのことであった。当時の新聞に「地主の物か、国の物か」でさわがれたとの事である。この神の神宝の裏付けとなる。古代「石本」の下手に「門作」(五五二・五五三番地)と云う地名がある。ここが野姫多摩の住居地であった。或る日突然盗賊の侵入を受け大騒ぎとなったので、これを感知した山津神炉王彦(饒速(にぎはや)(ひの)(みこと)五世孫、伊賀色雄命後)は駆けつけてこの賊の一味を捕まえた。そして縄でしばりあげた処を「男縄」(男縄七七一、七七〇番地)と云い、追いかけた処を「追いかけ」(追越し五四四、五五一)と云うそして一味の逃げた処を「駈け越し」と名付けている。捕まえた賊を投獄した処を「白子」(白子五六四、五六七番地)と云われている。この時駈け越しを逃げた者は玉振主剣を持ち去ったと見え、炉王彦は「男縄」で捕まえた賊よりうばいかえした。神宝は鏡二種、玉四種(昭四年三月出土)比礼三種(昭四年三月、布は腐敗し取出し不能)と祭祀土器若于であったとのこと。最も大切な玉振土剣だけは取られてしまったので多摩姫は非常に勢を落とし、毎日泣き暮れて、今迄の信仰もとだえ淋しく暮らしていた。その時、炉王彦は様子を伺いに訪れた。「姫よいつ迄も神に祈らず泣いばかりいても剣は返らない。吾が身を大切にせられよ。」と云って「この俺の剣を玉振主剣として神祗(じんぎ)を篤くせよ。」と言って渡された。姫はこの剣を手にして玉振りを行った処「黒い石」の巨石の上の十種の神宝はみるみるうちに濃い霧となり濛々とわきあがり、この霧の間から夢のよう、幻のように次から次へと巨石の上に五柱の立派な男神が生まれた。二人は驚いて顔面を見合わせて又、振り返ってみると、また巨石の上に三柱の女神が霧の間から夢のよう、幻のように次から次へと浮かび出た。なんという神々しい光景であろう。滑らかな美しい舟形の黒い石は女石神で強く角ばった天を睨むが如き四角な黒い石は男石神であった。又、月夜には舟形石は光り輝き、男石神は朝夕の太陽の光を受けて角ばって光り輝く「黒い石」であった。「黒石」の起源は、この巨石より始まる。其の後、この巨石を黒石の「石の本神社」として祭ったのである。然し多摩姫は、崇神天皇の命で三輪山を祭るよう云われ神人となり三輪山へ移ったので、その後、信仰もとだえたので六世紀の塚古墳時代この巨石は塚石となった。現在、目につくのは、塚穴の石と、小次郎谷の「牛石」(小次郎谷八二八番地)と或る家の庭石と、もう一つは神谷の半切に祭られている。この石の伝話は当地に現在尚残っている。この当時黒石より修羅(木馬)に乗せられて山を越えて神谷に着いた時、ここに池あり、百人以上の人に引かれて池の横まで来たが、どうしても動かなくなったので相談の上この石を二つに割ってはとの事で「割りきず」を入れた処、たちまち血が流れ横の池は赤くそまり、「血沼」となったとのこと、石が云うのには「黒石の里に帰りたい、里に帰りたい」と云ったとのことである。現在、神谷村の半切(はんぎり)(半分に割ってはとの切りきずが入れられた。)に其のまま、祭られている。こうした原始的な信仰から現在の神々が生まれている。

 又、丸笠神社(一名流れ宮、元禄九年に伯太へ、現在伯太丸笠古墳の前に祭られている。)縁起(明応三年八月七日、神官藤原康基書く)に、依ると祭神は速須佐雄命である。この縁起の頭書に「興八王子俱来蘇民、欲酬先」云々とある如く速須佐雄能命は、「八王子」をともにつれてきたことが明記されているのは、天照大神と速須佐雄能命と天の安河(やすかわ)をはさんで相対し()気比(けひ)(神に誓いその正否を伺うこと)がおこなわれた。双方は剣と玉を交換しそれぞれを打ち砕いて心のあかしをたてられた神々を言う。天照大神の御子三神、多紀理毘売命(又の名、奥津比売命)(いち)()嶋比売命(又の名、狭依比売命)多岐都毘売命、御みずからの玉よりうまれし御子なり。速須佐雄能命の御子五神、正勝勝速天之穂耳命(天忍穂命御子、天孫瓊瓊杵命である。)天之菩卑(ほひ)能命、天津日子根命(凡河内、木の国、倭県主外)、(いく)津日子根命、熊野久須毘命、御剣から生まれた御子を併せて八神を八王子としてお祭りしたので「八王子神社」と云われていた。其の後、大和の城下郡の黒田より来り、黒石で土着した。黒田君(第八代孝元天皇皇子、比古布郡之信命後也)は同族の天皇の皇子を祖神として「()代目の()の御()」を祭った神社であるから、八王子神社となったとも云われ、又、自ら神官になり黒石の現在の「大下」を神田とし槇尾川の付近を開拓して平井の薬生(光明皇后の療養した薬生院のあった処)下代、黒石の川向い、納花の神田迄、黒石の神田として当時、黒石八王子神社の神田とした。そして神社も経済的に栄えたのであるが、黒田君は、壬申の乱以降、皇族政治と有力豪族の圧迫に依る専制化政治をきらい、黒石の奥條垣内で住居を持ち一農民として暮らしたのである。一般の人々は、これを「()殿(との)」として尊敬したのである。その後、同族にあたえられた苗字は「永野、藤原(二)、髙橋(二、髙林、小林)、佐々木(二)、塚本」となり神官として帯刀を許し、当時の武士も先方から道をゆずるほど権威があったとの事で、他村から神官の「位」を高価に買おうとした人々もあったとの事、天仁二年(八七二年頃)「常幸寺」を建て、神社緒行事準備をここで行う事になった。この営神、営仏守は藤原善勝(藤原本勝の隠し子)であった。から八七二年前の事で、明治三十八年、春日神社に合祀する迄、地名「八王子」に鎮座していたのである。或る家の門の扉は八王子神社の松の木で八百年以上の年輪を数えたとの事もほぼ一致するものである。其の後、南北朝時代には武士団の集結地となる。当時の兵火により常幸寺は今から六五〇年前に焼失した。(寺院跡は柳の浦五五九、本坊田五五八、五六七番地)然し神社は兵火をのがれて、明治時代まで「塀」に囲まれて残っておったとの事である。南北朝時代以前は盛大極めていたが、その後、共同体制は益々強くなり各垣内(かいと)の発達は、今迄より一層進み、「奥條垣内」は、村の総括事項を受け持ち、在官所もあり総てを支配し「西福寺」を氏寺としていた。「赤田垣内」は、土器、田部を司取り「日神寺」を持っていた。「山田垣内」は、警護義務を持って神田並びに黒石要処を守って「常幸寺」を持っていた。だが、日神寺、常幸寺は、南北朝時代の黒石合戦(翌延二年又は、建武四年十月十九日)で焼失して現代は地名を留めている。こうした垣内の発達はいつ頃からかと云うと「万葉集」にはカキツ(可吉都)という言葉を使って垣内をあらわしてある処から今から千二百年前に既にあったことを証明し鎌倉時代から江戸時代初期に、だいたい固定して今日に及んだものである。当時の垣内から出る神社の祭祀当屋(祭祀当番)となると大変である。当時は当屋になれる家は垣内の中でも何軒かに決まっていて古くからの土着あるいは、その村の開拓者の子孫と信じられている一群の家である。垣内のうちでは旧家として重んじられる。その年の神様を祭ったり、また神職とは別に、その年の神社の祭礼に村人を代表して仕したりして、昔は一年間仮(ほこら)を造って神様を祭った。祭礼の日には、当内(当屋になれる人々集団)の人々は、当屋の家に集まって酒宴を行ったのである。古代の祭祀共同体が形を変えて輪番祭祀制になったものである。現在は、鏡二種(一種は藤原光長の名入り蝶模様、玉葉四三)(他の一種は薩摩守名入り)を御神体として、御幣一種は御魂として、結婚順位に依って十人衆に加入し順当神主となって諸行事準備は西福寺で行い、祭祀は十人衆で行い、当日十人衆は新加入当屋で祭祀を行う。順当神主の一老より祭祀を相勤め諸行事を設定するものとされている。今から一五〇年前に書き替えられた「堂之講中往来帳」には、毎月十五日、西福寺で準備相勤め、正月五日は修正会、二月十五日は涅槃講、五月は虫上講、霜月十五日は諸勘定なすと書かれて古代より古往来の通りとある。この行事に就いて述べて見ると、毎月十五日は節日として相勤めるが、特に「正月五日修正会(◎◎◎)とは過ちを改めて正しき修めることで、これまで過ちばかり繰り返しきた自分が、一陽来復(正月)とともに正しい我が身に生き替わる最初の日として法会を勤めるのである。そして「平和、繁栄、福祉、幸福」を祈る年頭の行事である。「二月十五日涅槃講(ねはんこう)」は教主釈迦如来が御入滅になった日で如来の御恩徳を感謝し、御教えに従うことをお誓いする法会である。涅槃とは貪欲(むさぼり)が尽き、怒りが尽き、愚痴が尽きたと言うことで、それにはいつまでも変わることなく()、苦しみのない()ほんとうに自由になる()、心に汚れなく行いに不正のない()、この四つの徳がそなわるからである。「五月虫上講(◎◎◎)」(祈年祭)は五殻の豊熟を神明に祈る祭典で、稲は春種を蒔いて夏、秋を経て冬になって収穫され、一年中通じて作るもので、稲を年として祈年祭とも云われ「大雨や暴風や洪水や、旱魃や(いなご)害」等の災いなく気候和順にして五穀豊年ならんことを神明に祈る祭典である。依って十人衆によって「西福寺牛王宝印」を作り祈祷の上、各農家に祈祷札を配りこれを苗代に祭るのである。苗代準備から井水まかし始めなり。田植から収穫迄、水まかし人足を出し、其の間「ひるね体制」「田植休み」「雨よろこび」を決め、野菜、和魚もつけて休みを実施したのである。この仕事も十人衆に依って決められた。「霜月十五日諸勘定講」(新嘗祭(にいなめさい))は一年の無事息災、五殻成就を感謝する祭典である。入供米、生子惣餉米、積立金等の明細を明確にする処の一年の決算日であった。古代古墳時代から飛鳥、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、江戸の諸時代を経て幕藩体制が出来たのでこの民制は「郡代―代官(地方、池川方)―十人衆(大圧屋)―庄屋―年寄―組頭」となり郡代重職年寄の支配に属し、その下に代官、地方、池川方の三役(諸士)がいて郷中を管轄していた。庄屋は村民の推挙にもとづいて任命され、その任期は最長は十六年、最短は四年、十一年内外の物が最も多かった。神官代を勤めた即ち神明に誓った「年寄」によって氏神は維持され、村の組織も成り立って村の発展に寄与したのである。古代より現在迄の地名伝承、先祖の遺跡を守り黒石の発展を祈願するものである。

 炉王山

 炉王権現とは、日本独自の修験道のみで、信仰せられるもので、仏でも神でもない。その本地仏(神の本体と信じられる仏)は過去仏の釈迦を中尊とし現世仏の観音、来世仏の弥勒を脇侍とする過、現、未、三世の三尊だと信じられている。日本古来の山岳信仰と中国の天師道に蜜教が、結合してできた修験宗の本尊なのである。この本尊は古来桜の木で造られていたといわれ、黒石ではこの本尊を祭った処を「炉王山」という。又、中世に「堂所山」と云われていた。これは、じつは土器生産の窯の神様で火の神とも云い、三宝荒神ともいわれているが近頃では、これがだんだんと広義になって台所方面の神様になってしまったが、古代「赤田」(赤は粘土、田は埴輪)は、(あか)埴輪(はにわ)()といわれ当時の族長は、火を燃し、これを貯える処、即ちいろりをお祭りして「赤田」の開き窯で、この火種を元火として土器を焼きあげたのである。これが、ため火の神様として当時は尊敬されていた。ところが古墳前期(小次郎谷八七五番地、弥生時代、甕棺出土)には日常の土器も葬祭用の埴輪も技術上では縄文土器や弥生式土器と同じような原始的なもので赤焼きのもろい焼きあがりであった。しかし一つ一つを丹念に粘土をこねて形を作りそれを小さな開き窯で焼き上げたものである。古墳中期(髙塚二一七番地古墳金の首飾、土器出土)に入ると大陸から伝わった新しい方法によって、技術革新がおこなわれ、質も量も一段と飛躍した。この新しい土器を須恵器と呼んでいる。この須恵器の窯は、十五度位の丘陵の斜面に築かれた。黒石の丘陵には十ヶ所の窯跡があり、こうした土器生産技術は黒石を初めとして光明池周辺から陶器邑に広まったものである。大和政権が蘇我氏の指導のもと行政機講の合理化を進め中央集権の強化をはかり国家らしい国家、政治らしい政治が生まれた時代は古墳後期(塚穴古墳、六五四番地)であった。つまり六世紀になって小古墳群が爆発的に増加した。当時の横穴式石室が家族を単位とした古墳で、黒石では二十数基に及び、こうした古墳を造営する人達が急激に増加したのはなぜだろうか人口の増加、生産力の発展、死後観の普及などが前提としてあるのは当然だが、それだけでは納得できない。小古墳とは言え、はるばる紀州より運搬して来た数トンの石をいくつも積み上げ、其の上に十数トンのヰ石を乗せ、さらに盛り土をして墳丘を築くのは、なみなみならぬ労働力を必要とするからである。この頃の地方社会は原始社会以来の族制的な絆が強く、当時の族長は広い地域を支配していたものと思われる。これがため、共同体的体制は出来ていたため、こうした古墳の増築が出来たのである。又、応神王朝時代には各地で開発が進み、生産技術がとり入れられた結果、伝統的な族長に組織された家族は尚、同族結合を強く残しながら、独立して富を貯え、身分を高めた結果この様な古墳が発生したのである。この炉王権現は、火の神として古墳に眠れる家族たちに依って崇拝されていた。其の後、大和より役の行者(役小角)がこの炉王権現を尋ね来りて「桜モト」の桜の木で三宝荒神を作り祭ったものである。黒石地名を縁起にすると、黒石の「山伏山」(番地二四より二九まで)で役の行者は念誦修行をしていた時、黒石の(うしとら)の方向に当たりて赤雲一道、天に通ずるばかりに立ち上がったので行者は驚いて其処「桜モト」へ行ってみると首に宝冠を戴き六()にして右第一手に独鈷、第二手に羯磨(かっま)をもった鬼神が自分は三宝衛護の神で荒神というものであるが、常に修行者を扶けて不信放逸の者を罰してやるから、今後自分を祈れ、自分の真体は此の七(しゅう)(山の窯の穴、焚口を云う)七谷の山それ自身だといった。そこで行者は「桜(もと)」(五七九番地)の桜の木を切り権現どおり三宝荒神を作り「護摩」(護摩田五七六番地)を焚いて祈祷したのち炉王山に祭ったのである。現在は桜の木で作った本尊も権現堂や籠り堂もないが役の行者没後ますます盛んとなって炉王山の僧尼とよばれる宗教家が多数ここに籠もっていたとのこと。又、発心の門(下の大門、三二○番地)といって仏門もあったとのことで、現在地名で上の門(発心門、二七八番地)下の門(修行門、三二○番地)と名付けられている。仏門にはいり悟りをひらくための発心門なのである。人間は発心し修行を重ねて等覚に達しさらに精進すると妙覚に達して悟りをひらくことができると仏教は教えている。そのためこの山には発心、修行、等覚、妙覚の四門があり、等覚、妙覚は炉王山の山上に。発心、修行は、山下にあったのである。炉王山を中心とした諸坊の分布するあたりは山下の「山伏山」であった。こうした原始的な信仰に仏教哲学的裏付けをはっきり与えて、この宗教を中興したのが平安時代はじめの理源大師聖室であった。役の行者から理源大師をへて宗教として完成した。修験道はそのもつ神秘的な呪術信仰を得、やがてその政治権力と経済利益を守るため「日神寺」を建て自衛することになった。いわゆる僧兵の発生である。衆徒とよばれるその下には自領荘園から徴集した国民とよばれる郷土をもっていて南北朝時代には一大軍事力の拠点となった。南朝の公卿や武士の全国通行も山伏に変装することによって可能であった山伏は元来、治外法権的特権を持っていて関門の自由通行が認められていたのであるが、経済力と武力の強大化がかえって中央の事変に巻き込まれるもととなり、南朝をへて後、南朝の退転の中でその勢力もしだいに昔日の面影を失っていった。

 桜の木の本尊も権現堂、籠堂、日神寺も南北朝時代の黒石合戦(翌延二年、又は建武四年十月十九日)の際全部焼失してしまった。其の後「堂所山」と呼んでいたが、焼け跡より炉王権現の御魂を現在の小さな(ほこら)に祭り「堂之講」(十人衆)の手で細々と祭られているのも淋しいものである。黒石の祖神として堂所山を炉王権現時代に少しでも復興させたいものである。又、この当時の大門で黒石の大門と同等である国分大門は現在「天野山」の裏門となって当時の盛大なる姿を知る上で

 是非参考にして頂きたい。

 一、愛宕講の起

 愛宕山(あたごさん)は京都市右京区嵯峨清滝愛宕にそびえたち、東の比叡山に対している。頂上に火の神愛宕権現を祭り、火除け、火伏せ、雷除けの守護神として有名、「愛宕信仰」と呼ばれ全国に分祀される社は約八百、八月一日には、千日まいりがあり、この日に参れば千日の参拝に代えられるという。古くは修験者の行場として名をはせ山容は厳しい。天正十年(一五八二)五月二十七日、明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲う前、この山で催した連歌の会で詠んだ「時は今、あめが下知る五月かな」は光秀の野望を句にこと寄せたとして知られている。これは、宝暦八年(一八二二)黒石奥條は、毎日のように火災を起こし、村は大騒動を繰り返した時、これが鎮火を願い「源太夫」は当時、山伏となり、西福寺、庄屋の許可を得て「往来手形」を手にして、(おい)の様な袋(リュックサック)を背負って四泊五日の旅に「わらんじ(大足)下駄(一本歯)二足、米三日分、梅干、着替、西福寺・春日神社祈祷札をいれ、約十キロ余りの袋を背負って愛宕神社に参拝し、末社として祭ったのが初めなりとされています。当時は現在と違って旅行等は、そう簡単にできるのではありませんでした。その様な場合には必ず村役人に届け出ることが義務づけられていたのです。それは、庶民を把握するための政策であったわけです。又、江戸時代の農民闘争の一形態である「逃散(ちょうさん)」や「浮浪」を取り締まることも理由の一つでありました。一方では、江戸時代には関所というものがあり、一般的には治安維持のためであった。以上のことから「往来手形」は必要となったのです。往来手形は旅行者の檀那寺、あるいは村役人が発行します。文面の内容は色々あるのですが「先ず旅行者の名前や人数は必ず明確にしなければなりません。」この文面を例記する「往来手形之事」 泉州池田谷黒石村 源太夫

 「右の者今般心願につき京都愛宕山修行にまかりいで候このもの代々真言宗にて拙寺檀那にまぎれ御座なく候これにより諸国陸路 御関所相違なくお通し遊ばされくださるべく候、巡脚先々にて、もし行き暮れ候はば一宿の儀お頼み申し候、万一急病などにて死去いたし候節はその所の御作法をもって宜しくお取りおきくださるべく候もっとも国元へお届けに及び申さず候、後日のため往来手形よってくだんのごとし 宝暦八年五月何日、泉州池田谷黒石村、真言宗西福寺 行きを変えて 国々御関所 御役人衆中宿々村々御役人中」

 以上の様な内容であります。「源太夫」は山伏姿で参拝したのは、これがためで当時は山伏は治外法権的な特権があったが、往来手形を念のため所持したのであろう。「源太夫」は四泊五日の旅を終え無事、帰郷した時、村中の人達は、西福寺に集まり祝福をしたと云う。又、村役人の指示に依って子供、青年、成人と云う様に一列に並ばせて「源太夫」のツエを一人一人に頂かして頭から背中、腰から足の指先迄なでさすり、頭痛や腰痛、足痛の起こらない様にと、いつも健康である様にと「あやかりツエ」にあやかったと古老より聞きました。それ以後、大峰山(三上講)参りも先達の「ツエ」にあやかる様になったと云う。江戸時代の厳しい時代に心願をこめ愛宕山を誘致した「源太夫」の業蹟は今も尚偉大であるので末永く奥條同行衆は心してお祭りせられん事を祈念致します。

 二、愛宕山講の団参

 豊臣秀吉が世を去り徳川家康は強大勢力をバックに豊臣氏を亡ぼし、ついて天下統一した後、約二六○年も続いた江戸時代の基礎固めをした。織田信長や豊臣秀吉の全国統一は有力な神社や寺院に大きな打撃を与えました。特に検地によっては田畑の境、広さ、良否などの測量検査を豊臣秀吉が全国に渡って調べ検地帳を作って耕作者を明確にし、年貢を取り立てる基準を作り、農民が耕地から離れることは許されず、きびしく取り締ました。今迄の荘園を取りつぶしたことは大きな痛手でした。信長は比叡山を焼き打ちし、高野山を圧迫し、日蓮宗をおさえ、石山本願寺を打ち破りましたが、これは信長の全国統一に寺院や宗教の勢力が拡大され前進を(はば)んでいたため徹底的に弾圧する一方、寺院を味方につけることもしています。江戸幕府になってからも寺院庇護の方針は変わらず全国の寺社には将軍が領地を与えたり、大名が寄進したりして税金をかけない様にしました。家康は元和元年(一六一五)「諸宗諸本山法度」を定め、寺社は宗教だけの活動をするように限られ、寺社奉行によって、きびしく統制されました。後に幕府はキリスト教を完全に禁止するため寛永十二年(一六三五)頃に始まるといわれる「寺請制度」(檀家制度)とよばれる制度を作りました。奥條同行もこの頃、出来たものです。それ以前は荘園制度の垣内宗教集団であったのは檀家同行となったのです。民衆はすべていずれかの寺の檀家になることで寺院に請け負わせて日本人一人一人がキリシタンできないことを確認させた制度です。「宗旨別帳」(宗門改帳)を作り婚姻や旅行等のときは、その属している寺(檀那寺)から「寺請証文」を書いてもらって身元を保証する制度でした。たとえば「一、右之者共一宗の菩提の旦那にてござ候こと実正なり、もしキリシタン宗旨にて候と、わきより訴人ござ候はば愚僧まかりいで申しわけ仕るべく候」以上の様な証文を書いていたわけです。地方では、旅の山伏や御師たちに依って厄除け、安産、子育て等の様々の効能のあるお守りや、お札がもたらされ、病気治しや、方位を占う祈祷師達が活躍した。こうした現実的な民衆の願望をかなえてくれる宗教こそが江戸期の民衆間で生きていた信仰だったのです。愛宕山講も文化六巳年四月(一八一二)と文政六年五月(一八二四)に二回に渡り頭書御札の通り団参しています。天保改革により(一八三○)に伊勢講以外の講は禁止されました。これがため本山との連絡も絶たれ、ひそかに明治維新を迎えました。江戸幕府は政権を天皇に返さなければならない様になり、大政奉還が行われ、天皇を中心とする明治新政府が出来ました。混乱した社会や経済の仕組みや国民の生活を立て直し対外的にも強大な力を持つために新しい時代への苦しみの道を歩みました。政府は西南の役後強力な中央集権的な政治がとれる様になりました。大日本帝国憲法の発布や帝国議会の開設による政治体制の整備、「天皇崇拝」を中心に近代天皇国家として独特な近代国家を形成しました。明治元年(一八六八)に神祗官再興を布告して「神仏分離令」と国家とは一致するという思想並びに政治形態を出し、これまでの神仏を合わせて、あがめていた習慣を止め、神社を寺院から独立させました。黒石も八王子神社や其の他の神々を春日神社へ合祀しました。其の後、明治二十九年頃に、現在の愛宕山の祠を瓦屋南鶴松に作成させた。「愛宕講勘定調帳」に記載されてあります。元は間中(まなか)四方の屋形で、木製で杉皮と棕梠で屋根を()いた木造建の祠であったと古老より聞きました。日清日露戦争から十年間は、資本主義の発展した時代で個性の解放を求め、浪漫主義運動が起こり、日露戦争後は、社会の動きがはげしく到底愛宕講として「神仏分離」の余波を受け、ひそかに祭る程度で団参等は出来ませんでた。大正末期から世界的不景気になりましたが、日本では軍部の力が増大し泥沼の戦争に突入していきます。大正十五年(一九二六)大正天皇は亡くなられ、今上天皇があとをつがれ昭和元年は、わずか六日で終わりました。翌昭和二年は、金融恐慌に見舞われました。昭和十二年(一九三七)七月七日、日本は中国との全面戦争に突入し中国大陸に攻め込み、中国軍や民衆の激しい抵抗にあって戦線を拡大し相方に大きな被害を出しながら、ひくに引けなくなり、中国全土を戦場にした日中戦争(日支事変)はやがて太平洋戦争へと広がっていきました。軍部の力は益々強くなり一部の激しい軍人達は実力によって国家を改造しようとして五・一五事件、二・二六事件を起こしました。議会政治は力を失い、軍部の独裁政治が強められました。国民精神総動員運動が、くりひろげら国民すべてが長期戦をつらぬく心構えを固めるよう呼びかけました。翌年には「国家総員令」が成立し、国家が資本、労働力、物資、出版物等のあらゆるものに無条件に統制動員することができる様に法律を作りました。この法律が成立したことに依って言論、思想の取り締まりを深め、社会主義運動、自由主義者等きびしく取り締まりました。宗教関係者は不敬罪や治安維持法違反等の罪に問われ犯罪人として多くの人が投獄されました。「神国日本」「天皇崇拝」等の思想から挙国一致戦争に協力する「軍国主義」」一辺倒になってしまったからです。「一億一心」「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵」等のキャッチフレーズをかかげて多大の尊い命を国に捧げ、焼土化した日本は敗戦を迎えました。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、敗戦を機に日本は歴史上最大の転換期を迎え想像を絶する変貌をとげました。今迄、続けてきた「国家神道体制」は連合国軍によって解体され「天皇ヲ以テ現御神」とする観念は完全に取り除かれました。昭和二十一年元旦には、天皇みずから「人間宣言」をなされ、戦争中に投獄された宗教家達は、昭和二十年十月九日に開放され自由の身となりました。昭和二十二年新憲法が施行され信教自由、政治と宗教の分離が規定され、日本の歴史上、初めて画期的な「信教自由」が保証されました。古来から、日本人になじんできた神道や仏教と云う既成宗教はおちぶれて勢力を失い、これに代わるものとして「新宗教」と呼ばれる宗教団体が戦前戦後を通して再建又は、新興して既成宗教を圧倒するほど伸長しました。既成宗教は低迷をつづけ新宗教に対抗して不安定な人々の現実の問題を解決していけるような教化能力がなく、さらに加えて新しい宗教制度や農地解放の打撃もあって益々既成宗教は低迷をつづけることになりました。戦後十五年を経て三十年代にようやく再出発の意欲を見せ始めました。昭和二十五年(一九五○)朝鮮戦争を契機に社会経済の復興がめざましく急速に、国民性を反映して既成仏教教団の地盤である農村から都市集中化へと人々が流出していく傾向が著しく日本社会の激変期であり、既成仏教界としては、この上もない危機意識があったといえます。それにひきかえ、三十年代後半は、創価学会、霊友会、立成校倫会等の新宗教は多大の信徒を集め巨大教団化し創価学会は猛烈な「折伏運動」を展開し政治にも進出しました。新宗教は単なる現世の利益の追求ではなく様々な経歴の信仰仲間の中に自己を置くことで新しい信念と価値観のもとに生きる全く新しい人生を教えているのです。既成宗教に代わったのは救済能力を失っていたからです。こうした時に奥條同行は昭和四十六年四月頃と昭和五十年四月に京都愛宕神社へ団参しました。昭和四十六年頃は「もどり雪」のため登山口で参拝をすませた模様で、二回目に団参した時は神社へ参拝出来ました。以上のような経過をたどり今日に及んでいます。今日尚愛宕講の健在なのは私達の家の中でも神棚と仏壇を祭っていることで解る様に一人の人が同時に「神」と「仏」を祭るという日本特有の「重層信仰」の姿を表すものとみられる。「神」と「仏」は、明治元年(一八六八)新政府の手による「神仏分離令」で分離するはずの神仏を区別せず、普段は両方の加護を求めて家に神棚と仏壇を置いているのは、それなりの歴史があると言うことです。

 三、黒石愛宕講員団参模様

 京都盆地をめぐる山々のなかで、西方に長くこんもりと一際目立つ峯、これが愛宕山(あたごさん)と呼ばれる京都の山の姿である。標高九二四米、京都では最も高い。山頂にある愛宕神社は、鎮火の神、勝運の神として当時九百を越す分社の総本山である。小児三歳までに参拝すれば、一生火難を免れると伝えられ「お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕さんには月詣り」ともうたわれています。表参道の一の鳥居は昔の愛宕道にあたる鳥居、元登山口にある鳥居は二の鳥居、一丁(一○九米)ごとに、やさしい顔の小さな地蔵さんが祭られてある。清滝から茶店の並ぶ道をとれば、二の鳥居に着く。登りはじめから急な石段を進む。杉木立の、うっそうとした道を息せき切って、青息吐息、もう止めようと何度か思った時、子供三人が元気に参拝をすませて、老婆さんと一緒に下ってくるのを見て励みが出た。「お助け水」を口にふくみ元気を取りもどした。「お助け水」などと名付ける処から、いかにも信仰の山であると思った。歩き易いようでも急な坂の連続だけに体調に気をつけながら上がった。五合目の小屋を過ぎると再び杉木立の道となり、この坂道を上がると水尾の分かれに着く。亀岡方面へ通じる道。ここまでくれば愛宕山迄あと一息だ。丁度水尾の里が一望できる四十四丁目、神社は五十丁目にあたる。このあたりから石段と木製の階段がつづく最後の上り坂、ここを「ガンバリ坂」と名付けた人もある。もどり寒波で降った雪がクマザサにはりついて、黒門の山門から境内までの道は、名残り雪が凍りついていた。春とはいえ海抜千米ともなると冷気が肌をさす。一歩一歩確かめながら二百段を踏みしめて愛宕神社の本殿へたどりついた。二時間余りの道のりであった。参拝を終え休息所で八十歳近い老婆さんと出会った。老婆さんは、年に四~五回お参りすると云う。【夏はここで、一杯飲むビールが美味しくてねえ。今どきはカン酒が最高だわよ。】と云って笑った。

 【私が、思うにお参りする人は多いのに、帰りに高雄を下る人は少ないのよ。あなたも高雄へ下りなさいと言って道順を教えてくれた。あのね、本殿の石段手前から右に道がついていて、又、変わって良いよ。月輪寺から清滝の道、広い道をさらにたどると、三体の地蔵があるのよ。この地蔵の辻をでると、直進すれば最高峰の地蔵山(九四七、六メートル)だが、ここ右にとってしばらく行くと再び右に首無地蔵への道標があるのよ。ここから比叡北山連山の眺めが最高だよ。首無地蔵から谷山川沿いに高雄へ抜けるのよ。】と教えてくれたが、団参のため来た道を下りました。

 

黒石愛宕大神

(永野光彦様工場横の山)